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物語で絶対に必要な「対立」。あなたは『勧善懲悪もの』と『正論と正論のぶつかり合い』どちらを選びますか?

こんにちは。サロンの吉野です。
「ドラマとは対立と葛藤」という言葉を、シナリオを勉強させている方は、耳にタコができるくらい、よく聞いているはずです。
特に「対立」は、物語を面白くする上で、欠かせないものになります。
ただ、一言で「対立」と言いますが、物語を創る上で、どんな対立構図を作っていけば面白くなるのか? また、対立にはどんな種類があるのか?を知っている人は、意外に少ないのではないでしょうか。
今回は物語を創る上で、絶対に必要な対立について、お話していきたいと思います。


単純にケンカ=対立ではない
対立というと、誰かと誰かが争っている、つまりケンカをしているイメージが強いと思います。
例えば、好きな女性(男性でも良いです)を奪い合う男二人(女二人)のように、同じ目的のある者同士が、それを獲得するために争うことは、日常生活でもよくあることです。
対立の中でも、こうした争い事は、最も原始的な対立構図といえるでしょう。
一方、個人的な争いではなく、ある種理念とか思想をめぐって争う対立構図があります。
例えば、正義と悪の対立などです。
いわゆる『勧善懲悪』ものと言われる話です。


勧善懲悪ものの代表的な対立構図
この『勧善懲悪』ものを創作する作者は、はっきりと「正義」と「悪」を区別(差別)して描きます。
つまり作者が正義と思うものをヒーローとして描き、それに歯向かう者を悪の化身として描いていくのです。
幼い頃、我々は物事の良し悪しを判断する能力が成熟していません。
その判断力を養うことに利用されるのが、ヒーローと悪の闘いを描いた作品です。
例えば、ウルトラマンと怪獣、仮面ライダーとショッカーなど、単純に良い方と悪い方を区別して、正義と悪を色分けしていくものです。
幼い頃はそれでも良い面がありました。
しかし、大人になってからの『勧善懲悪』ものには、若干危険な要素を伴うものが多くなります。
例えば、かつて流行ったアメリカの西部劇というジャンルの話。
これは治安を守る保安官を正義と位置付け、それに歯向かうインディアンを悪と捉えているものでした。
皆さんお分かりのように、新大陸に後から入り込んだヨーロッパの人を正義と呼び、元から住んでいた原住民を悪にしてしまったのが西部劇の原点なのです。

日本の昔話でも、非常に違和感のあるものがあります。
例えば、『桃太郎』です。
桃から生まれた桃太郎が、鬼を退治をする話なのですが、それではこの「鬼」は誰のことでしょうか?
初の征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂をご存知でしょうか?
彼の任務は夷狄(いてき)の征伐です。
そのときの夷狄とは誰か?
日本各地に住んでいたアイヌ人などになります。
つまり桃太郎のモデルとされる坂上田村麻呂が「悪」と位置付け、征伐の対象にしたのは、「鬼」などてはなく、我々と同じく生きている人間だったのです。
このように『勧善懲悪』ものというジャンルの話は、創る側にも観る側にも、それ相当の配慮が必要なのです。
特に創る側は、果たして正義と呼ぶものが本当に正義なのか?
悪と呼ばれる者が本当に悪いことをしているのか?を、しっかりと考えてから発表する必要があると思います。
一番ダメなことは、その話の内容で、何も悪くない人が深く傷ついてしまうことでしょう。


正論と正論の争い
対立構図のもう一つ代表的なものは「正論と正論の争い」になります。
つまりどちらが良いとか悪いとかというはっきりしたものはなく、「どちらも正しい……」と思えるもの同士の対立になります。
物語の対立構図を作ろうと思ったら、『勧善懲悪』もののほうが比較的作りやすいのではないでしょうか。
それに比べて、「正論と正論の争い」の対立構図を作るのは難しいことのように思えます。
ただ、成熟した大人の作者が対立構図を作ろうと思ったときは、安易な『勧善懲悪』ではなく、どちらの意見も正しい……と思えるものを提示し、結論はそれを観る人に委ねるというような姿勢で物語を創っていただきたいと、私は思います。



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