シナリオコンクール対策の創作交流サークル「サロン」

シナリオコンクール対策の創作交流サークル「サロン」は、シナリオ公募コンクール受賞のためのノウハウを徹底的に追求していく唯一無二のサークルです。

"映画"の定義とは? カンヌ国際映画祭とNetflixの対立に思うこと

こんにちは。サロンの吉野です。
どうやらカンヌ国際映画とNetflixが揉めているようです。
事の発端は、Netflixが作品の劇場公開を拒否したことが一因だそうです。
それを受ける形で、映画祭側がNetflixコンペティション部門の参加を拒否したとのことです。
その結果、Netflixカンヌ国際映画祭からの撤退を表明しました。


カンヌ国際映画祭から言わせると、「映画は劇場で観るものである」という主張は譲れないようですし、Netflixとしては、映画はいつでもどこでも観たいときに観られるのが大事という、これも譲ることができない主張のようです。
この争いの答えを、私なりに考えたいと思いますが、その前に、映像作品が作られていく変遷について述べたいと思います。


映像作品の大元は劇場公開映画
元々芝居というものは、ライブで舞台の上の役者さんが演じてきたのが始まりです。
その後、映像技術が進化していき、写真を動かす(今で言うところの動画)形で、芝居を記録できるようになりました。
それが活動写真、いわゆる映画の始まりです。
世界中で長い間、黄金期とも言える映画の時代が続きましたが、第2次大戦後、その流れはテレビに移りました。
それからビデオテープ、DVDの普及があり、そして現在、Netflixなどに代表される配信サービスへと時代は移りました。
映像エンターテイメントも、劇場映画→テレビドラマ→ビデオ(主にVシネ)→DVD→配信サービスという流れで進化発展していきました。
今問題になっているカンヌとネトフリの争いは、この映像エンターテイメントの進化過程の中で、起きるべくして起きる宿命のようなものなのかもしれません。


それぞれの利点を生かす模索
少し話はズレますが、テレビドラマについて、以前の記事で述べたことがあります。
そもそも映画とテレビドラマは、全く性質の違うものであり、例えば、コーンゲームのようなジャンルは、テレビドラマには向かないのでは?とお話しました。
何が言いたいかと申しますと、映像エンターテイメントにおいては、それぞれの媒体には、それぞれの特色があって、無理に同じ土俵で立ち合う必要はないのではないか……。
つまり、お互いに無理をして相手の条件に合わせるのでなく、それぞれのユーザーの期待に沿うことができれば、それで良いのではないかと思うのです。
今回の揉め事は、そういう意味で言うと、先ほども申し上げたように、起きるべくして起きた争いで、それぞれのスタンスを確認していくために必要な争いように思いました。
ただ、これからの問題は、映画祭やストリーミング事業会社の対立ではなく、そこにコンテンツを提供するクリエイター側のスタンスの問題だと思うのです。


どこを主戦場にして創作をしていくのか?
私のことを引き合いに出して、大変恐縮なのですが、私はテレビドラマを書きたくて、脚本家の道を目指しました。 
映画ではなく、舞台でもなくテレビドラマです。
昨今のテレビ及びテレビドラマの不調は置いて、テレビっ子と言われた私のような年代には、やはりテレビが一番合っていたのです。
ただ、私よりも若い年代でも、劇場公開の映画を作りたいという方もいらっしゃると思いますし、「これからの時代は動画配信だ!」と思って、エンターテイメント作品を作っていく方もいらっしゃるでしょう。
要するに、自分はこれだ!と思える土俵で創作を続けていくことが、クリエイターとして必須になってくると思います。
不毛な争い事に巻き込まれないためにも、創作の土俵のスタンスをはっきりさせていくことが、クリエイターとして、これからは大事なのではないか、と思うのです。



f:id:sinario_salon:20190522171448j:plain