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平成の時代をシナリオと共に生きる

こんにちは。サロンの吉野です。
今日で平成という時代が終わってしまうんですね。
今回の記事、ものすごくカッコをつけたタイトルにしてしまいましたが、実際のところ私は、平成という時代をシナリオと共に生きてきたという訳ではありませんでした。
もしも、タイトルのように、シナリオと共に生き抜くようなことができたらどうだっただろう……と、自分の半生を省みています。
ですので、このタイトルの言葉は、私の見果てぬ夢のようなものなのかもしれません。


私が脚本家、シナリオライターという職業を意識したのは、昭和の終わりの頃です。
正確に言うと、昭和63年の1月3日、フジテレビで放送された山田太一さん脚本の『なつかしい春が来た』を観たことが始まりでした。
詳しい内容は省きますが、幽霊になったおじいちゃんが、家族のところに個別に訪れ、おじいちゃんとの再会を得て、家族それぞれが自分の人生を見直していくという内容のドラマです。
テレビドラマとしてのエンターテイメント性はもちろんのこと、観ている人に対して、作者の主張、メッセージを、これだけ伝えることができる職業があるんだ!と新鮮な驚きを覚えたのです。


当時、20代後半だった私は、普通のサラリーマンをしていたのですが、仕事に遣り甲斐もいまひとつ感じられず、職場での人間関係も、あまり上手くいっていませんでした。
そして真剣に転職を考えていました。
大学を出た後、就職した企業は一年ちょっと辞めてしまったので、その当時勤めていた職場は、人生二度めの会社になります。
このまま転職を繰り返しても、何も良いことはないんじゃないか……という葛藤もありました。


そんなときに出会ったのが、脚本家という仕事でした。
漠然と「なりたい!」と思いました。
ただ、どうすれば脚本家になれるのか、皆目検討がつきませんでした。
当時は携帯電話やインターネットなんてものはありませんでしたし、脚本家になる方法のような本も、近所の書店には置いてありませんでした。
(月刊シナリオや月刊ドラマという雑誌を知ったのは、はるか先になります)
仕方ないので、倉本聰さんの書かれたエッセイを買ってみました。
(山田太一さんの作品に触発されているのに、倉本聰さんの本を買うというのも一貫性がないのですが……)
エッセイなので、脚本家になりたいという私の欲求の解決には、当然なりませんでした。
それでも「脚本家になりたい!」という思いは、蝋燭の火のように、消えることはありませんでした。


明けて昭和64年。昭和は1月7日で終わり、1月8日から平成元年になりました。
いよいよ転職しよう、そして出来れば脚本家の勉強をしよう、と思っていた矢先、会社から転勤を命じられました。
とりあえずは赴任先の様子を見てから決断をしよう思いました。
結果、その新しい赴任先で、私は初めてその時の仕事に遣り甲斐を覚えたのです。
人間関係も改善し、仕事が楽しくなりました。
脚本家への夢を持ったまま、今の仕事に没頭していきました。
結局、本気で脚本家になろうと決断したのは、それから14年後。
平成14年のことです。
私の年齢は40歳を過ぎていました。


私よりもちょっとだけ年上、もしくはほぼ同世代の脚本家に、岡田恵和さん、北川悦吏子さん、井上由美子さんたちがいらっしゃいます。
平成時代を代表する脚本家の方々です。
その方々が脚本家として活躍され始めたのは、だいたい皆さん30代の前半です。
誠におこがましいの極まりなのですが、もしも転勤がなくて、脚本家になることを、その時決断していたら……。
もしも、自分にもう少し脚本家になることへの貪欲さがあれば……。
もしかして、自分にも脚本家としての輝かしい道があったのかもしれない……。
人生に「たられば」は禁物ですが、平成最後の日に、そんな思いにかられる自分がいます。


ただ、私は今の自分に全くといって言いほど、悔いはありません。
脚本家を目指す時期こそ遅かったかもしれませんが、脚本家、シナリオライターを目指す方々とサークルを運営できる自分に対して、十分満足しています。


人生、色々ありますが、どういった選択をしても、最後には悔いのない生き方と言えるように、さらに私も精進していきたいと思います。
皆さんも、平成から令和への時代代わりの日に、ご自分の人生を見つめ直すのも、良いのかなと思います。



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大和書房 山田太一脚本集より