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親切な「説明」はシナリオの大敵

こんにちは。サロンの吉野です。
昨日はゼミがありました。
先週の土曜日に引き続き、創作テレビドラマ大賞をターゲットにした作品の本文の一部を発表された方が多かったです。
昨日のゼミで話題に上がったのは、シナリオを勉強していく上で、禁じ手とよく言われる「説明」についてです。


解らせることへの強迫観念
皆さんは、シナリオを学んでいく上で、説明ゼリフは書かないようにと、繰り返し教えられてきたかと思います。
人物の心情を解らせるために、あるいは今の状況を解らせるために、言葉であるセリフで何もかも説明してしまうのは、シナリオの技術としては、非常に稚拙な方法であると言われてきたのではないでしょうか。
ただ、説明ゼリフについては、理解をしている人が多いと思うのですが、「説明的なシーン」に関しては、長くシナリオの勉強をされていても、今一つわかっていない方が非常に多いように思うのです。
おそらくそういう方は、必要以上に説明をしておかないと、自分のシナリオが他人に理解されないのではないか……という強迫観念にも似た思いがあるようです。
しかし、こういった思いに囚われてしまうと、せっかく心を込めて作った極めのシーンが台無しになってしまったり、いわゆる陳腐な蛇足になってしまいかねないのです。
今回は一本の映画を例にとり、そのオリジナル作品とリメイク作品の違いから、「説明的なシーン」が如何に野暮なものに見えてしまうのかをお話していきたいと思います。


解らせるのではなく、感じさせる
例にとる作品は、『八月のクリスマス』という映画です。
以前、リメイク作品に関する記事でご紹介したことがありますので、ご記憶のある方もいらっしゃるかと思います。
オジリナルは韓国版で、7年後に日本がリメイクした作品です。
日本版のタイトルは、『8月のクリスマス』となっています。


主人公は三十代半ばの男性で、大病を患っていて、余命幾ばくもない状況にいます。
そんな中、主人公は一人の若い女性と知り合い、お互いに仄かな恋心を抱きます。
しかし、主人公は自分の命があと僅かしかないことを悟って、恋心を打ち明けなどの積極的な行動は取らないでいます。
一方、女性のほうは、主人公が入院したことも知らされず、その後も逢えないことにイライラを募らせます。
結局、二人の恋は、お互いに告白することもなく、主人公の死をもって終わります。
ラスト、女性は主人公が営んでいた写真館に立ち寄り、そこに主人公が女性を撮った写真があることに気づき、自分の写真に向かって微笑むというシーンで終わります。


韓国のオジリナル版には、どうして女性は主人公の写真館にもう一度来たのか? そして何故最後は微笑んで終われるのか?かの説明及び説明的なシーンは一切ありませんでした。
一方、日本のリメイク版では、主人公が女性への想いをしたためた手紙を書き、その手紙が女性の手に渡り、その告白を読んで涙を流すというシーンが挿入されていました。


私は韓国オジリナル版を先に観ていたのですが、説明や説明的なシーンが全く無くても、十二分に感動できましたし、何か腑に落ちないということも、一切なかったのです。
ですので、後になって日本のリメイク版を観たとき、正直「ああ、残念だな……」という感想しかありませんでした。
最後のほうの説明的なシーンを除けば、良い意味でオリジナル版に対して、忠実に作られていたので、本当に惜しいと思いました。
もちろん説明に関しては、媒体の違いによる差があることもあります。
例えば、映画よりもテレビドラマのほうが、多少説明的要素を増やさなければならないということはあるのです。
ただ、今回例に上げた作品は映画です。
映画はテレビと違って、観客の集中力が非常に必要な媒体になります。
集中力があるところへ、蛇足的な説明をさせてしまうと、観ている側は興醒めしてしまいます。
芸術的要素のある映像作品は、観客に対して、「解らせる」のではなく、「感じさせる」ことが大切だと、私は思います。


コンクールに応募している皆さんも、審査員が興醒めしてしまうような説明は、出来る限りやらないようにしていただきたいと思います。
それを具体化するには、ご自分の作品を「解らせる」から「感じさせる」シナリオに移行することが大事になってくると思うのです。



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