シナリオコンクール対策の創作交流サークル「サロン」

シナリオコンクール対策の創作交流サークル「サロン」は、シナリオ公募コンクール受賞のためのノウハウを徹底的に追求していく唯一無二のサークルです。

ラジオドラマは、極めて主観的な表現の媒体である

今晩は。サロンの吉野です。
昨日はゼミがありました。
テレ朝のコンクール締め切りの後、サロン会員の皆さんは、例年、新年早々に締め切りがある創作ラジオドラマ大賞に向けて始動されている方が、とても多いように思います。
中には、ラジオドラマを書くのが初めてという方もいらっしゃいます。
ゼミの中、あるいはシナリオ診断の中で、いつも感じることですが、ラジオドラマを何本も書いているにも関わらず、映像シナリオの癖が中々抜けない人が、非常に多いということです。
シナリオを書かれる人のほとんどは、映像から入っていきますので、そこから脱却するのは、意外に難しいのではないかと思います。
映像シナリオの書き方と、ラジオドラマの書き方は、ある面真逆の部分がありますので、まずはその基礎的な書き方から勉強するのは当然になります。
それと同時に、ラジオドラマは書き手にとっても、受け手(リスナー)にとっても、映像シナリオとは全く違う性質を持っていることを理解しなければなりません。
それは、今回のタイトルにもありますように、ラジオドラマは、極めて主観的な表現の媒体であることを押さえなければならないということです。


ラジオドラマは、主人公一人の思いを描いていく
映像シナリオでは、1時間もののコンクールなどでも、主人公を中心に、二番手としての副主人公、その他数人の人物の思いを描くことができます。
もちろん、役柄の序列によって重い軽いはありますが、脇役三番手、四番手でも、作者がその人物の思いを描く場面を与えれば、視聴者は受け取ってくれるのです。
それが出来る理由として、映像シナリオでは、例えセリフで切々と心情を語らなくても、役者さんの表情一つで、何を考えているのか解らせることができます。
つまり映像シナリオは、多くの人がその絵(映像)を観れば、やはり多くの人が同じような解釈ができるという非常に便利な機能を持っているからです。
要するに、映像シナリオの特性は、極めて第三者的で、尚且つ客観的な表現ができる媒体であるということが言えるのです。


ラジオドラマは、語る人も聴く人も一人であることを押さえる
それに対してラジオドラマは、第三者的、客観的な表現が苦手な媒体になります。
例えば、主人公以外の人が登場してきても、その人の心情を、パッと仕草や表情で簡単に解らせる方法が無いからです。
つまり「絵」の無いラジオドラマでは、多くの人の心情描写を、同じ作品の中で平行して描くのは無理だということになります。
したがって、一つのラジオドラマの中で、きちんと心情描写、心理描写ができるのは、「主人公」一人になるのです。
これがラジオドラマは主観的な表現の媒体であることの大きな理由になります。
 
受け手側(リスナー側)にも同様のことがいえます。
テレビが無かった時代、ラジオが主流だった頃では、家族全員でラジオを聴くのが当たり前でした。
ドラマも大家族揃って聴くのが普通の日常風景でした。
当然、ラジオドラマの形も現在とは違っていました。
今のテレビや映画と同じように、多く登場人物の心情、状況を客観的に解らせなければならないために、第三者的な「ナレーション」を多用していたのです。

ところがテレビが普及してからは、状況は一転します。
テレビが主流になってからのラジオは、受験生が深夜に聴いていたり、トラックやタクシーの運転手さんが、情報収集も含めて聴いていたり、あるいは仕事の合間聴いたりと、「一人」で聴くのが普通になっていきました。
つまり現代のラジオドラマは、書き手側は「主人公一人」の思いを届けることが大事になり、それを受け取るリスナー側も、「一人」で聴いていることが圧倒的に多いということを押さえておく必要があります。
要するにラジオドラマは、「一人」というものに焦点を当てた、極めて主観的な芸術なんだということを、特に書き手側は強く意識する必要があるのです。

私が1時間ものの映像コンクールを語る上で、「誰(主人公)と誰(副主人公)の話なのか?」を決めることが大事だと、いつも申し上げているのですが、ラジオドラマの場合は、「誰(主人公)が語りたいのか?」を決めることが大切になります。
つまりラジオドラマは、主人公一人の話と言っても過言ではないのです。
この点を押さえて、映像シナリオとの根本的な違いを理解していくことが、ラジオドラマコンクールで良い成績を残す秘訣になるはずです。



f:id:sinario_salon:20191206205434j:plain