松本清張作品とドラマの社会性
こんにちは。サロンの吉野です。
先日、フジテレビ系列で、松本清張原作の『砂の器』がオンエアされました。
一昨日の記事で、現代性、社会性のあるテーマ、モチーフについて述べましたが、昭和30年代、松本清張氏の書かれた小説は、まさにΓ社会派推理小説」として、これまでにはないミステリー小説の新ジャンルを築かれました。
その清張氏の代表作の一つが、『砂の器』です。
『砂の器』は、野村芳太郎監督の作品を初め、何度も何度も映像化されています。
中居正広さんや今回の中島健人さんなど、時のアイドルの演技力テスト的な意味合いなのかどうかわかりませんが、Γ宿命」を背負った人物の葛藤を、代々演じられてきました作品です。
しかし、今日私が言いたいのは、演技力のことではなく、初めにも述べましたように、現代性、社会性のあるテーマ、モチーフについてです。
一旦、『砂の器』から離れて、同じ松本清張氏の代表作『点と線』に話を移します。
『点と線』も、『砂の器』同様に、何度も映像化された作品です。
中でも私が注目した『点と線』映像化作品は、テレビ朝日で2007年にオンエアされて、昨年2018年に再放送された作品です。
主演はビートたけしさんというこの作品は、私の感想としては、ドラマ的には、原作を超える内容だったと思います。
あらすじの詳細に関しては、皆さんご存知の原作であり、映像化ですから省きます。
短い言うと、個人的な男女の心中と思われた事件が、実は裏に省庁の不正、汚職に絡む殺人事件だったというのが原作の大部分を占める内容になります。
2007年、そして2018年に再放送された映像化作品の何が良かったというと、省庁の不正、汚職という点は同じですが、そこに強き者は弱き者を、何のためらいもなく、犠牲にしてよいのか?という訴えがこのドラマにはあり、人間ドラマとして、非常に深く感銘を受ける内容になっている点です。
それに加えて、戦争中の軍隊に置ける上官に対する部下の絶対的な服従という慣習が、作品の昭和30年代にも関わらず、尾を引きずっている様子も描かれていました。
ちなみにこの作品は、現代に置き換えず、昭和30年代原作の時代のままで描かれています。
元々松本清張以前の推理小説、探偵小説の主流は、犯人が個人的な動機で罪を犯し、その犯罪を天才的な探偵が暴いていく!という形が一般的でした。
それに対して松本清張氏の作品は、犯行を犯すのは個人だけれども、犯行の動機に「社会的な悪」、Γ社会悪」を入れた点が大きな特長でした。
この映像化作品は、その「社会悪」に「個人的な人間の葛藤、悲哀」を付加した点が、ドラマとしての重みを持たせたのではないかと思います。
話を戻して、先日オンエアされた『砂の器』です。
俳優の方たちは、とても一生懸命に演じられていたと思います。
しかし、本来の清張作品にある動機として「社会的、社会性のある悪」が原因で罪を犯すのではなく、身内の犯罪が引き金……というのが、どうしても弱さを感じてしまうのです。
もちろん背景に、犯罪加害者の家族への偏見という社会性のある要素も取り入れているのですが、あまりにも色々な要素を取り入れ過ぎている感がありましたので、全体的に「何だったの?」という感じから抜け出せませんでした。
いずれにしても、清張作品を映像化するときのスタッフの方々の苦労は、並々ならぬものがあると思いました。
もしも、原作や野村芳太郎監督作品のように、ハンセン病への偏見、迫害という犯行の間接的な動機が、テレビドラマでは描けないのであれば、『砂の器』の映像化はしなくても良いのではないか……とすら、私個人としては思いました。